| 夏の来客 |
山田一郎さん、花子さん(この、想像力のかけらもない仮名、ご本人様、そして読者の皆様許してね)は、かつてご近所に住んでいた。 花子さんが、英会話の勉強をしたいというので、わたしの知人のイギリス人を紹介した。50歳を超えての英会話。理由を尋ねると、 「主人が、退職したらヨーロッパにつれて行ってくれると言うから、勉強しておこうと思って」と答えられた。「本当に実現するかどうかは、わからないけどね」と、笑っていらしたが、この夏、それが実現して、二人で出かけてきた。 一郎さんは、海外の技術を日本の工場に伝える仕事をしていた。そのために、ヨーロッパ出張だけでも数十回にのぼった。しかも、1回の出張が何ヶ月に渡る事も多い。 長女の出産も、たちあえず、花子さん一人で、生まなくてはならなかったという。さらに、病気の義父の看病という仕事もくわわり、子供が手を離れても、海外旅行にでかけることも、ままならなかった。 そして、一郎さんが、見聞きしてきたヨーロッパの様子を聞きながら、想像を膨らませていた。一郎さんも、ことあるごとに 「退職したら、ゆっくりふたりでヨーロッパ旅行をしよう」 と言っていた。 そして、数年前に一郎さんは定年を迎えた。赴任先の借家も引き払って、十数年振りに我が家に帰った。退職、引越し、家の手直し…。そうこうしているうちに、あっという間に月日がたってしまう。 「70歳になってしまったら、きっと、もう、億劫になって、海外旅行などしたくなくなるだろう」と思い立って、計画の実現を今年に決めた。一郎さん、69歳。 計画は決めたものの、一郎さんの体調が悪くなったり、実際に、飛行機に乗るまでは、実現するかどうか半信半疑のところもあったようだ。 行き先は、かつて一郎さんが訪れたヨーロッパの地の中で、ぜひ、花子さんにみせたいところを中心に決めた。それは、必ずしも風光明媚なところばかりではなく、一郎さんが、働いていた場所や、滞在していた町など…。一郎さんの忙しかった、会社人生を振り返る路程でもあった。そして、それは、花子さんも、ぜひ、見てみたいものだったのだ。 期間は、二ヶ月。 添乗員もガイドも無い二人だけの旅である。 久しぶりにヨーロッパの地で再会したとき、花子さんは、笑いながらこういった。 「二人で、旅行すると、けんかばっかりしているのよ」 かつて、英語を教えていたイギリス人の友達が、冗談でこう言った。 「けんかをするなら、それは、花子が悪いんでしょ。一郎の意見がいつも正しいにちがいない」 すると、花子さんは、怒りもしないで、こう答えた。 「そうね。やっぱりわかるのかしらね。主人の意見の方が、いつも正しいわね」 それを聞いていた一郎さんは、こうつけたした。 「かつてはね。わたしの方がいつも正しかった。でも、今回こうして旅行してみたら、案外、花子の意見が正しい事も多くて、頼っている自分を発見したりしてるんですよ」 花子さんは、専業主婦だった。しかし、いつも快適な場を家族に提供できるようにこころをくだいているプロの専業主婦だった。料理も手を抜かず、中途半端なレストラン顔負けの見事な腕。こまごまと手を動かして、和紙や布の見事な小物を作り上げ、生活も人生も前向きに見事に生きている人だ。 三流の(ごめん、少し見栄をはっています…本当は四流以下かも…)主婦のわたしは、いつも尊敬していた。 「主人の方が、いつも正しいわね」とさらりと言ってのける。見事な一流振りでしょ。 花子さんは、わたしにこう教えてくれた。 「今回の旅行は、けっこう重たいのよ。周りからね、この旅行は物見遊山じゃないのよ。これからのふたりが、ずっと、顔をつきあわせて生きて行くのに、どうやって生きていくかを考える旅なのよって、宿題をわたされたの」 2ヶ月のヨーロッパ旅行のあと、おふたりでどんな結論をだされたのだろうか。興味は深いが、それは、聞く立場じゃないよね。 お二人が、わたしに持ってきてくれたお土産は、一郎さんがデザインして、竹をけずり枠組を組んだ上に、花子さんが、自ら染色をした和紙を貼りつけて作った、みごとなランプシェードだった。 こんな見事な夫婦共同作業ができるような年の取りかたを、わたし達もしたいものだと、つくづく思ったのである。 *** もう一組は、佐藤さん、鈴木さん(ふたたび、想像力欠如、ごめん)そして鈴木さんの息子の孝夫くん(高1)。 佐藤さんは、海外旅行は、香港にいちど行った事があるだけ。鈴木さん親子は、初めての海外旅行である。 昨年、わたしが、出発する時に、 「今年は無理だけど、一年がかりで貯金して、来年は、遊びに行くからね」と約束してくれた。孝夫君の受験も無事に過ぎ、パート先の休暇もなんとかとれ(この時節、1週間、パートを休むのは、至難の技なのだそうだ)、本当に実現にごぎつけてくれた。 着くなり、荷物が紛失していたりと、前途多難な幕開け。英語はふたりとも、自信がない。高校生の孝夫君も、ここで、急に頼られても…。まくし立てる係員に、なんとか用件は伝えて、ゲートから出てきたのはさすが、年の功。(はい、このおふたりも、わたしより年上です) 1週間の滞在中、珍道中で、笑いっぱなし。なにしろ、見るもの全て、新鮮で、どこにつれていっても、感激してくれるし、案内のしがいがあること。 英語なんかわからなくたって、そのへんのスウェーデン人のおじさんを捉まえて、 「すみませ〜ん。ちょっと、写真とってくださ〜い」 と、堂々の日本語。それが、見事に通じている。 「どうも、ありがとうございま〜す」 日本語のていねいなお礼に、相手も、なぜだか、にこにこ。 三人だけで、コペンハーゲンに行ったら、ちょっと不安で早く帰ってきた。 「こんな、早くてチボリ公園とか見られたの」と聞くと、 「うん、ほんのチボリっとね」 スウェーデンが凍りつきそうな、寒いギャグの連発。 「バスタブで、体を洗ってはいけないと思って、バスタブの外で洗ったら、洗面器がないので、困っちゃった。よく見たら、排水口もなかった」 というので、風呂場に直行したら、バスルームが水浸しだった事も…。ま、それも、笑い話。(わたしは、ちょっと、青ざめたけど) それにしても、行く先々で、話題になるのは、一緒に来られなかったそれぞれの息子さんの話。 「このラベンダー、隆が一緒に来ていたら、喜んだのに」 「ハムレットのお城ねえ。亮も見たかっただろうなあ」 「お母さんたちが、こんなところで、珍道中してるの、見て笑ってるね」 「わたしたちが、外に出ると雨が止むのは、ふたりで、空で、ビニールでも広げてくれているからじゃないかねえ」 お気づきの方も、いらっしゃるでしょう。隆君も亮君も、すでにこの世にはいません。 かつて、息子が闘病していた時、同じ病室で戦っていた、文字通り戦友でした。 「もう少し、看護婦さんに、愛想よくしなさいよ」と注意したら、 「ぼくはね、今、自分の体を支えているだけで、精一杯なんだ。悪いけど、他の人に気を使っている余裕がないんだ」と隆君に言われて、はっとしたという鈴木さん。 「病気をしていると、よく人はがんばってって言うけど、わたしには言えない。精一杯がんばっているのに、もうこれ以上、がんばれないよね」 長い間、兄の隆君の闘病生活を見ていた孝夫君。鈴木さんが 「あ、仏壇にごはんあげなきゃ、隆がお腹減っちゃう」と言った時、はじめて 「お母さん。お兄ちゃんはもう死んだんだよ。もういいかげんに、僕の事を一番に考えてくれない」 頑張って、我慢していたのは、隆君だけじゃなかった。 亮君は、18歳で、亡くなった。佐藤さんの一人息子だった。長い間、再生不良性貧血で苦しんで、とうとう最後には、高校も中退せざるを得なかった。 骨髄移植が成功して、一般病棟に戻った時、 「お母さん。これで、ぼくも、将来の事を考えてもいいんだね」 と喜んだ。何年生きられるか、いつも不安だったのだ。 ところが、長い間の輸血が、思った以上に体を蝕んでいた。移植は成功したのに、亮君は、帰らぬ人になってしまった。 佐藤さんは、 「亮は、わたしに、死ぬ楽しみさえ与えてくれた。亮が待っていると思うと死ぬのが楽しみだもの」という。 その頃、佐藤さんも、鈴木さんも、すごく泣いた。泣いても泣いても、無念で、無念で、会って、話しては泣いていた。 なぜ、この話を書きたかったか。 あの時、息子なしでは、生きていられないと、本気で死にたいと思っていたふたりのお母さんも、今はこうして、はるばるスウェーデンまでやってくる元気がでて、大声で笑えるようになった。 読者の皆様の中に、そんな絶望の淵にいる方がいらっしゃるとは、思わないが、子供に先立たれるという絶望のあとでも、こうして、笑える日が来るのだ。それは、子供のことを忘れるということではない。むしろ、自分の中で、一緒に生きていることを実感できる日がくるということなのだ。 佐藤さんの帰国後の手紙の中にこう言う一文があった。 「亮が、あれだけ乗りたがっていた乗馬をとうとうすることができました。わたしと一緒に、亮もちゃんと、乗馬をしてました」 ***** 山田さん、佐藤さん、鈴木さん、そして、その他のお客様。はるばる、こんな遠いスウェーデンまで本当によくきてくださいました。ありがとう。
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