| スウェーデンに住む事情 |
これまでにも、何回か書いてきたことだが、SFI(移民のためのスウェーデン語クラス)には、難民も多い。スウェーデンでは、現在、経済難民は受け入れていないので、来ているのは、政治難民である。簡単に言ってしまうと、戦争状態にある母国から逃げてきた人達。 コソボやイラン、イラク、そしてクルド…・。 湾岸戦争を筆頭に日本でも、大いに報道されているので、これらの名前を聞いたことがある人は多いだろう。 しかし、私に限って言えば、そうした事実を知っていても、それは、知識の域を出ていない。イギリスから帰国する時、ちょうど湾岸戦争が勃発していて、ヒースロー空港にもテロをおそれて、武装した兵隊がたくさんいた事を覚えているぐらいである。 それは、日本人の目から見たら、異常な光景だった。生活の場に、銃を持った兵隊がいることなどめったに遭遇しないからだ。 SFIのクラスメートにクルド難民がふたりいる。ベストンとハヤット。 ベストンは、35歳ぐらい。男性。イラクから来た。母国では、バイオロジーを専攻していたインテリである。 ハヤットも、同じくらい。女性。やはり、イラクから来た。母国では、学校の教師。夫は、政治家だった。 ふたりが、なぜ、スウェーデンに来たかを書くためには、どうしてもクルドの歴史について触れておかなくてはならない。以下、わたしの一夜漬けのクルド情報。 クルド人の土地クルディスタンは、イラン、イラク、シリア、トルコ、アゼルバイジャン、アルメニアなどの国境地帯にある。 第一次世界大戦の後、イギリスやフランスの思惑で、これらの国々に分断された。つまり、独立した国を持たない民族になった。 推定2600万人と言われるクルド人。そのうち1200万人がトルコ。800万人がイラン。400万人がイラク…・と言う具合に住む地域によって、分けられてしまった。 最大のクルド人をかかえるトルコでは、政策として「トルコにクルドはいない。居るのは、母国語を忘れた山岳トルコ人だ」という姿勢をとってきた。 そして、私語にいたるまでクルド語を禁止した。ようやっと最近、クルド語を話す事を許可したが、それでも、学校や公用語としては、いまだに禁止している。 日本人旅行者などが、トルコ内のクルド人地域に旅行しようとすると、旅行会社からもトルコ政府からも、「危ない」という警告を受けるようだ。トルコ内で、クルド人の独立運動は激しく、トルコ人の認識としては、「山賊」扱い。 ところが、実際に行った日本人は、そこで、優しいクルド人に会う事になる。 どこから来たか聞かれて「イスタンブール」と答えたら、「イスタンブール?あそこはダメだ。危険だ。トルコ人ばっかりだ」と言われた。というのを和光大学の松枝さんのサイトで見たときには、笑った。 イラン・イラク戦争では、イランは、不満を持っているイラクにすむクルド人を味方に引き込み、イラクはイランに住むクルド人を味方に引き込み…。というわけで、クルド人同士で、殺しあってしまったという悲劇もある。 しかもその後、イラクは、報復としてイランに味方した北方クルド人の迫害を始める。 ベストンもハヤットもそこから逃げてきた。 ハヤットは、家族でトルコ経由で亡命。夫と当時6歳の長男と一緒である。 私が、驚いた事のひとつは、亡命は決して安くないということ。彼らは、密入国業者に日本円にして数百万円の料金を払っているのだ。偽造パスポートや飛行機などを手配してもらって、スウェーデン国内に着く。 入国審査の時、初めて、自分たちは亡命であることを告げるのだ。政治難民を受け入れているスウェーデン(ヨーロッパの一部の国々では、割合を決めて、受け入れ体制を取っている)では、入国審査で、彼らを別の部屋に移し、必要書類を書かせる。そして、審議の結果、難民と認められると、入国を許可される。 ベストンの場合は、単独で亡命。約100万円を業者に払った。国を選んだりできる場合もあるが、その場合費用は高くなるそうだ。 パスポートなしで、スウェーデンに入国して、審査の結果、入国を許可される。その後、スウェーデン政府の費用で、妻を正式に呼び寄せることができた。 「お金がなかったら亡命もできないわけ?」と聞くと、「そうだよ。お金がないために国に残っていなければならない人もたくさんいる」 しかし、スウェーデンに来たからといって、人生が突然バラ色になるわけではない。政府からの補助は、限られているし、言葉の問題、差別の問題があって、なかなか、良い職にはつけない。 しかも、3年たたないとスウェーデンの市民権も貰えない。それまでは、国外に旅行に出るのも不自由なのだ。 さらに、現在戦争状況にないと国に送還されるおそれもある。 実際、スウェーデン政府も年々増える、難民対策は、頭の痛いところなのだ。ベストンの例を見るように、1度、難民として受け入れると、その家族が入国したい時に拒否できない。そう言う形の親戚を頼った移民も増える一方だ。 日本人の私から見ると、住居も生活費も基本的な教育費も負担してくれるスウェーデン政府ってすごいと思う。 しかし、クラスの難民の中には、スウェーデンに怒りを持っている人も少なくない。イラクからサダムフセインの政治に不信を持って逃げてきた同級生のイマッドは、よく、その怒りを担任にぶつける。 「自由を求めてスウェーデンに来たんだ。でも、経済的にも、行こうと思うところに旅行もできない不自由な生活を強いられている。仕事だって、掃除夫やスーパーのアルバイト店員ぐらいしかないんだ。結局、飼い殺しじゃないか」 知的レベルが高く、母国での生活が充実していた人ほど、その不満は高いのだろう。 担任は、 「ちゃんと勉強して、良い仕事についている人もたくさんいる」と言うが、やはりその数は、少ないし、運というまた別の要素も必要だ。 3月21日は、イスラム教徒にとって、大きなお祭りだった。家庭で、ささやかにお祭りを祝いながら、故郷を思ったハヤットは、夫とふたりで、わんわん泣いたのだそうだ。 「すごくきれいなところなのよ。人もみんな親切だし。そこに、いつか、帰れるときがあるのだろうかって、二人で話しながら、すごく泣いてしまったわ」 実は、その一言が、よくわからないのに、今回のこのテーマを書きたくなったすべての理由なのだ。 自分の愛する国があって、そこでの生活もちゃんとあったのに、それらすべてを捨てて、逃れてこなければ行けない状況。 「どうして、スウェーデンに来ようと思ったの」と聞いたわたしにベストンはこう答えた。 「スウェーデンに来たかったわけではないんだ。たまたま、来たのがスウェーデンだったというだけ。 まだ少年の頃、サダムの爆撃を受けた。飼っていた犬もおやじも怪我をした。当時6歳と4歳と2歳だったいとこたちは、殺された。それが1974年。それから1982年、1984年、1991年…大きな爆撃があった。化学兵器も使われたし、核兵器も使われた。その度に、逃げた。 1度は、七日間かけてイランまで山岳地帯を歩いて逃げた。雨で寒くて、野宿で。最初の3日間はパンがあった。後の4日は、何にも食べないで、ただ、逃げた。 そうやって、爆撃におびえながら、命を危険にさらしながら生きていくのが、人間の人生か?」 ベストンは、スウェーデンに来る前に結婚していた。結婚して、子どもを持ちたいと思ったときに、その争いの中の環境が、はたして最良か?と考えたのではないだろうか。 「クルディスタンのことを教えて」と頼んだわたしに、ベストンは、レポート用紙二枚にぎっしり書いてきてくれた。 「僕達クルド人は、自分たちの独自の旗を持っている。3色の旗だ。赤は、血の色。白は平和の色。緑は、生命の色。そして、真中の太陽は、自由の象徴だ」 そして、そのレポートはこう結ばれていた。 「僕の最大の望みは、地球から戦争がなくなること。そして、すべての人が平和な人生を送れることだ」
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