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2001/5/25                  75号


喜怒哀楽

ただいまのテーマ

軍艦ヴァーサ号

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 1628年8月10日午後4時過ぎ、ストックホルムの港から、排水量1210トン、全長69メートルの大型旗艦「軍艦ヴァーサ号」が出航した。
 国王グスタフ・アドルフの命令で作られたこの軍艦は、製作中から、当時の対戦国であったポーランドにも脅威を与えていた。
 その日、出航を喜びに多くのストックホルム人が、港に押し寄せていた。
その衆目の見守る中、その悲劇は起こった。
 わずか1000メートルばかりを進んだところで、ちょっとした横風にあおられて、この軍艦は横転してしまったのである。 
 処女航海、まだ、外海にも出ていないうちに……。

 逃げ遅れた50人あまりの乗員とともに、ヴァーサ号は、バルト海に完全に沈んでしまった。

 国王はすぐに、責任者を捕らえて処罰するように命令した。

 しかし、関係者への審問の結果、結局、だれもが、処罰されることなく、この事件は終わってしまう。巨額の費用と月日をかけた軍艦が、数分で沈没してしまったというのに。

 この軍艦は、国王からヘンリックとアーレンドのヒーベルトソン兄弟に発注された。この兄弟は、オランダ人で、当時、イギリスとオランダは、造船技術の世界一を競っていた。
 アーレンドは営業、ヘンリックは技術と役割はわけられていた。
 ここに悲劇の第一歩がある。

 国王と交渉するのは、アーレンドの役。当初の計画から、しばしば、国王の注文が替わるのを承る。技術的に知識がないので、国王の意向を受けるしかない。作るのはヘンリックの役。受けた注文にできるだけ応えようとする。
 予定されていた船のサイズが、途中で、大型になる。船底はすでに作り始めていた。したがって、小さな船底の上に大きな船を乗せる事になった。

 モデルにしていたオランダ船「セントルイス号」には、46基しか乗せてない大砲を、国王の希望で70基にする。そのために、二つのフロアーを大砲用にするという初の試みがなされる。
 二つのフロアーに大砲をつんでしまうと、大砲が水に浸からないように、喫水線をあまり高くする事ができない。しかも、船底は狭いので、バラスト(船を安定させる為の重し)の石をたくさんつむ事ができない。

 初搭載のレンガ作りのオーブンも重い。

 不運は他にもある。技術責任者のヘンリックが、完成を待てずに、病気で死んでしまうのだ。引継ぎは、弟子のヤコブソンにまかされた。しかし、この間、事実上責任者不在の時期ができてしまった。

 さらに、その年、二隻の旗艦を失い、直前には10隻の船を難破させていた国王は、製作を急がせた。

 そして、今の造船技術では、考えられないくらいに上体の重い重力バランスの悪い船の完成となってしまう。

 沈没後、即、逮捕されたハンソン艦長は、「大砲を縛り忘れていただろうなどとは、とんでもない。乗組員が酒を飲みすぎていたということもない。ちょっとした突風で沈没したのは、作り方が悪い」。釈放。
 技術の責任者ヤコブソン。「わたしは、ヘンリックの後を継いだだけだ」。釈放。
 契約したアーレンド・ヒーベルトソン。「国王の希望通りに作っただけです」。釈放。

 「じゃ、誰の責任なのか」と裁判で聞かれて「神のみぞ知る」と、答えたと言う話は有名だ。

 結局、誰一人、責任をとらされるものがなかった。

 この話、あちこち責任のなすり合いをして、結局うやむやにしてしまう日本の政治と似ていない?
 それにしても、実際に製造に携わっていた熟練の作業員の中には、この船は危ないと思っていた人もいたんじゃないだろうか。でも、ルートに乗ってしまっている仕事に、どう口出しする事もできず、大勢にのまれてしまったのでは、ないだろうか。
 実際に、出航前に、甲板長が、船員を端から端まで走らせて、重心のテストをしている。「何往復か走らせたら、すでに、バランスが悪くなって、倒れそうになったので止めた」と証言しているのだ。
 巨大な歯車の中で、正論を、納得させるように伝えるのは、むずかしい。

 ヴァーサ号の沈没は、わたしにいろいろな事を考えさせる。

 沈んでしまった船は、大きすぎて、引き上げは諦められた。錨を使ったりして引き上げようとしたが、船を傷つけるだけで、結局、無駄だったのだ。

 潜水夫が、雇われて、大砲は、いくつか引き上げられた。

 その方法が、すばらしい。コップを逆さにして、水中に沈めると、コップの上の方に、押しやられた空気が残る。その原理を利用するのである。
 足場のついた大型のコップに人間が入って、そのまま、水中に沈める。すると首から上は、コップの中に残された空気の中に出す事ができる。その状態で、棒を使って、水中で引き上げ作業をする。
 それでも、寒いバルト海では、1回15分が限度だろう。

 そして、50余門の大砲を引き上げた後、すべての引き上げ作業は終了した。

 さて、ドラマは、実は、ここから始まる。

 沈没した船の話を聞きながら大きくなったひとりの少年は、それを研究することを趣味とする。しかも、彼の研究は、ただ文献上だけではなく、実際の行動を伴っていた。
 先の尖った錘を水中に下げ、その先についてくるサンプルを調べたのだ。

 沈んでから300年以上たっている。今では、沈没した正確な場所さえわからない。
 あちこち場所をかえ、数年間同じ作業を繰り返した後、彼は、錘の下に樫の木片がついてきたのを見逃さなかった。
 1956年9月13日。すでに38歳になっていたアンダーシュ・フランセンの快挙である。
 早速、潜水夫を雇い、調査をしてもらうと、たしかにその場所の深さ30メートルのところに軍艦ヴァーサ号が眠っていたのだった。

 バルト海は塩分が少なく、そのために船食虫がすくない。300年前の沈んだ木造船が、ほとんどそのままの形で残っていた。
 そのニュースは世界を駆け巡った。寄付金などで資金をつくり、多大な作業の末、ヴァーサ号が引き上げられたのは、それから5年後1961年4月24日のことだった。

 軍艦ヴァーサ号は333年の海底での眠りの後、水面に姿を現したのだ。
 そこに表れたのは、17世紀からのタイムカプセル。17世紀の造船技術、文化、装飾品………そうしたものの実物である。

 海底では、生き長らえたヴァーサ号だが、陸上ではむしろ、デリケートなものである。現代技術を駆使して、保存液を吹きつけ、空調、照明を考慮した保管場所を用意しなければならない。
 そうして、完成したヴァーサ博物館。ストックホルムのユールゴーデン島にある。
 そこで、わたしたちは、17世紀の軍艦に実際に手を触れることができる。
 もし、わたしが17世紀の人間だったとしたら、まず、触れる事はできなかっただろう旗艦に。

 ヴァーサ号がもし、設計ミスの船ではなく、ストックホルムの内海にあっという間に沈んだ役に立たない船ではなかったとしたら、こういう運命にはならなかっただろう。
 ヴァーサ号は、今、軍艦として生きたであろうよりも、長く、そして、より多くの人を喜ばせるために存在している。まさに、「神のみぞ知る」運命だったのだ。

 ところで、ヴァーサ号の引き上げの時、その大きさゆえにいくつもの案が検討された。
結局、船の下にいくつかトンネルを掘ってそこにワイヤーを通し船をすくい上げるという妥当な方法がとられた。

 こんな案もあった。
 「ヴァーサ号の周辺を凍らせて氷漬けにし、氷の浮力で浮かせる」
でも、どうやって、凍らせるの?

 わたしの最も好きな案は、これ。
 「ヴァーサ号の中に、大量のピンポン玉をつめこんで、浮力で浮かせる」
なんて、おちゃめなの!!


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